田原本町に伝わる昔話 - 最終回

田原本町に伝わる昔話のイラスト

茂吉橋のこと(室町)(広報たわらもと1992年12月号掲載)

 むかし、茂吉という人が木造の橋をつけてから、人々はその橋を「もきち橋」と呼ぶようになったといいます。

 五十年ほど前までは、この橋から西方向の保津・宮古の入口までは一軒の家もなく、クヌギがうっそうと繁(しげ)り、昼でも物騒な怖い道だったそうです。

 古老の話では、タヌキやキツネがいて、カスリを着たキツネや高坊主(たかぼうず)が出たといいます。高坊主は胴から上しかなく、下は見えなかったそうです。

(宮古の方の話より)

茂吉橋(広報たわらもと1992年12月号掲載)

茂吉橋のイラスト

 吉村茂吉は幕末から明治維新にかけて、市町で醤油屋を営んでいた藤森屋の当主でした。

 吉村氏は、広瀬群藤ノ森村(現大和高田市大字藤森)から田原本町に来往し、屋号を藤森屋といいました。藤森屋は田原本屈指(くっし)の豪商(ごうしょう)で、浄照寺本堂の修理にも多額の寄付をしています。また私財を投じて明治初年、宮古を通って王寺に通ずる新道を造ったり、室町と西新町の境界をなす宮古の用水路に架かっている橋をつくりました。この橋を今も「茂吉橋」と呼んでいます。

 現在の橋は、昭和四年にコンクリート橋に改造されましたが、それでも「茂吉橋」の名前は残っているのです。

 また廃藩(はいはん)の際に、田原本藩の債務三千八百両を決済するために、領分富豪から献金を求めましたが、藤森屋茂吉も多額献金者の一人でした。(『田原本郷土史』)

 さて、茂吉の子どもに、大次郎(文久四年(一八六四)一月生まれ)がいました。大次郎は自由民権(みんけん)運動に参加しました。さらに彼は、初瀬川の架橋(桜井市大泉の東方、旧道に架かる橋)にも努力し、藤森屋は近代の田原本町に代々にわたり貢献(こうけん)し、町の近代史にその名を残しているのです。

(茂吉橋のことについては、元田原本町中学校教諭の谷弥兵衛先生の指導を得ました)

※「自由民権運動」=明治七年(一八七四)一月、明治維新のときに活躍した板垣退助(いたがきたいすけ)らは、国民の声を政府に反映させるために、選挙によって選ばれた議会をつくるべきではないかとの建白書(民選議院設立建白)を政府に提出しました。このときから、明治二十二年(一八八九)の大同団結運動に至る民主主義運動を「自由民権運動」といいます。
 はじめは新政府の方針に批判的な士族たちが中心になっていましたが、やがて農民や都市の住民など様々な階層の人々を巻き込んだ運動になりました。田原本町でも、津島神社などで大勢の人達を集めて、民権拡張を呼びかける演説会がしばしば開かれています。

(参考図書『青山四方にめぐれる国』奈良県 ・『知恵蔵』朝日新聞社)

追剥堤(おいはぎづつみ)(広報たわらもと1992年10月号掲載)

 寺川の新町から根太(ねぶと)あたりの堤をそう呼んだといいます。竹や雑木、カヤが繁り、通行人の着物を剥(は)いだり金銭を奪うものが出たのでそう呼んだそうです。

 天理市の備前町を流れる川も、むかしはカヤがいっぱいに茂っていて、「備前(びぜん)堤」「オイハギ堤」といわれ、通るのを恐れたといいます。

藤の木の話(阪手北)(広報たわらもと1992年10月号掲載)

 カンジョウ川が流れる字チマタという所に、大きな藤の木がありました。これを「不事の木」と呼んで、嫁入りにはここを通らなかったということです。今もこの場所を「フジノキ」と地元の人は呼んでいます。

 池の中の島

 田原本町には池が多くあります。一丁(いっちょう)池(約一万平方メートル)や二丁池と呼んでいます。

 古くからこれらの中には、中央に小さな島のある池がありました。これは池水の神をまつる塚とか初穂さんなどと呼んでいましたが、一方では、波による堤の侵蝕(しんしょく)を防ぐため、波を分散させるための昔の人の知恵だったという話もあります。

寺銭(てらせん)の話(広報たわらもと1992年11月号掲載)

 現在のように地域公民館のないころは、お寺が人々の集会の場であり、憩いの場所でもありました。今も「会所寺」として残っていて、地域の公民館として利用されているところもあります。

 昔のお寺は、こっそりと行われる博打(ばくち)の場としても利用されました。このとき場所の借り賃として、なにがしかのお金を寺に支払いました。これを「寺銭」と言ったことから、博打の場所代を「寺銭」というようになったということです。

 ほかに「てら」は「寺」で宿銭(やどせん)とも、「照」で灯明代(とうみょうだい)の名義で徴収するお金の意味とも言われています。

(大安寺にある教安寺で聞いた話)

火おこしのまじない(味間)(広報たわらもと1992年11月号掲載)

 味間にある補巖寺(ふがんじ)(曹洞宗(そうとうしゅう))は、昔々、二回の火災に遭って焼けたそうです。幕末におきた火災は放火だったそうで、犯人はチュウスケという人物でした。それ以来、カマドや火鉢の火の着きにくい時は「チュウスケ、チュウスケ」と言って火を着けると、よく火が着くということです。

(「郷土の歴史教室」より)

イッタチの話(広報たわらもと1992年11月号掲載)

イッタチのイラスト

 イッタチ(イタチ)が道を横切るのを見かけることがあります。右から左へ横切るとお金が懐(ふところ)に入ると言い、その反対だと損をしたり悪いことがあるといって、気をつけよといいます。またイッタチの姿を見かけたら、「イッタチのええ顔、イッタチのええ顔」と大声でどやぐと立ち止まってキョロキョロと顔を見せてくれるといいます。

 さらに「イッタチのサイゴンベエ(最後屁)」といって、追いつめられて絶対絶命(ぜったいぜつめい)になると黄色い屁(へ)をこくといいます。この屁はすごい悪臭(あくしゅう)で、人がかけられると十二年間も臭いは抜けないそうです。

(「郷土の歴史教室」より)

タヌキの三吉の話(大安寺にある教安寺)(広報たわらもと1992年11月号掲載)

 むかしむかし、教安寺の本堂の下にタヌキが住んでいました。名前を三吉といい、サンちゃんの愛称(あいしょう)で親しまれていました。

 夕方お寺の家族が庫裡(くり)でくつろいでいると、下駄の音をカタカタと響(ひび)かせて帰ってきたといいます。家人は「そら、サンちゃんが帰って来たで」と言って戸を開け、まねき入れたそうです。

 いまはお寺の本堂は建て替えられて新しくなり、三吉狸の住家(すみか)はなくなってしまい、以来三吉タヌキは現れなくなったということです。

下之庄の耳不動尊(三笠)

 下之庄(三笠)を流れている鳥米川(むかし梅川とも呼びました)の堤の曲がり角に、石造の不動尊が東を向いてまつられています。この不動尊は、江戸時代の石工であった田原本も佐兵衛氏によって、文政三年一二月(一八二〇)に建立されたことが刻印からわかります。

 伝承に寄れば、文政五年(一八二二)と、安政五年(一八五八)にコレラが蔓延しましたが、下之庄村からは一人の発病者も出なかったことから、不動尊のおかげと、後にその徳を称えて、村人が「不動講」を以てお祭りするようになったと言うことです。

 ながい年月を経て、今では耳病の不動尊として霊験あらたかで、人々の信仰をあつめています。この不動尊にお供えしてある錐をいただいて帰り、耳の穴のところで錐をもむようにすると、よく聞こえるようになると言われています。事実不動尊の祠には、たくさんの錐が束ねて供えられています。

 この話によく似たものに、宮古薬師堂の薬師如来(重要文化財)があります。耳薬師といって、ここも耳の病を癒してくれる仏として信仰が厚く、村人により薬師講が営まれています。

※安政五年(一八二二)「八月、大和でコレラ病流行。田原本にも多数の死者が出る。」と『田原本町の歴史 第七号』にある。
※『田原本町の歴史 第四号』<昭和六十年刊>には田原本中学校郷土研究部の調査した「田原本町の道標」が掲載されており、一部不動尊周辺の記録がある。

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