田原本町に伝わる昔話 - 第13話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

矢部の松(広報たわらもと1991年7月号掲載)

松のイラスト

 むかし、「矢部の浜田のあの松見やれ。天でおさえて地で開く」とうたわれたほど大きな松の樹があったそうです。後にこの大松は、箸尾(広陵町)の御堂の棟木になったと伝えられています。

(『田原本町南小学校区郷土読本』より)

太子灸(たいしきゅう)(広報たわらもと1991年7月号掲載)

 新木(にき)の村の西側を太子道が通じていました。いまもそのなごりが確かめられます。

 道はいま、宮古から黒田、伴堂(三宅町)にかけて顕著にのこり、筋違道(すじかいみち)とも呼んでいます。

 この道を聖徳太子が法隆寺と飛鳥を往復するのに通られました。途中新木の村を通ると、たびたび松村家に立ち寄って休息されたそうです。太子はそのお礼に灸を教えて行かれました。以来松村家は灸を家業としてたいへんに繁盛し、今の先代まで続いたということです。

 この灸は「太子灸」と呼ばれ、治療をうけるために大坂などずいぶん遠方からも訪れる人があったということです。また、松村家の先祖は泰河勝(はたのかわかつ)と伝え、屋敷内の小祠には「泰河勝神霊」として祀られています。新木の松村正隆家に伝わる話です。

(「郷土の歴史教室」より)

すがる田(でん)(広報たわらもと1991年7月号掲載)

 平野村飯高(ひだか)(現橿原市)の瑞花院(ずいかいん)の西隣りに子部(こべ)神社があります。

 このあたりを子部の里といい、子部宿禰(こべのすくね)の先祖である天之穂日命と天津彦根命をまつっています。子部神社から百メートルほど西に小子部(ここべ)神社があり、俗に軒の宮(のきのみや)と呼ばれ、小子部のすがる(1)をまつっています。ここから西北に「すがる田」という所が二反歩あります。小子部のすがるが住んだ屋敷跡だそうです。

 小子部のすがるは、雄略天皇(2)のおおせをうけて、諸国をまわって蚕をあつめてくるのを間違って人の児を集めて来て天皇に奉ったところ、その子供達を養えと命じられ、小子部の姓を賜ったといいます。

 またすがるは、天皇のおおせで雷をとらえてさしだしたとの話も残っています。

(1)すがる
須我屡とも。書記の雄略六年三月にみえる。

(2)雄略天皇
第二十一代天皇とされ、五世紀後半の在位とされる。

流れ伝説

1.壺の中の児(広報たわらもと1991年8月号掲載)

 秦楽寺(じんらくじ)の北の門の前に、もと金春屋敷(こんぱるやしき)がありました。金春の先祖は秦河勝といわれています。

 秦河勝は洪水に際して、長谷川(はせがわ)(初瀬川)を流れてきた壺の中に入っていた嬰児(えいじ)だったそうです。この様子は、ときの天皇の夢にあらわれ、「私(河勝)は秦始皇の再誕である」と名乗って、天皇に重く用いられたということです。このことは花伝書(1)にも出ています。

(高田十郎編『大和の伝説』より)

(1)花伝書
『花伝書』は「風姿花伝」の通称で、世阿弥が書いたものだそうです。
その神儀篇に
《欽明天皇の御宇に、大和国泊瀬の川に洪水の折りふし、河上より一つの壺流れ下る。三輪の杉のほとりにして、雲客この壺をとる。中にみどり児あり、形柔和にして玉の如し。
これ降人なるが故に内裏に秦問す。その夜、帝の御夢にみどり児の曰く。
「我はこれ大国、秦の始皇の再誕なり、日域にゆかりありて今現在すと云々」。帝、奇特に思い召し、段上に召さる。成人にしたがひて才智人に越えて、年十五にして大臣の位に上がり、秦の姓を下さる。秦という文字「ハタ」なるが故に秦河勝これなり。》 とあります。
十数年の歳月をかけて完成した「風姿花伝」は、世阿弥の最初の能芸論で、全七篇からなっています。

2.千代神社の話(広報たわらもと1991年8月号掲載)

 川東村大安寺にあり。元千代(ちしろ)にありしかども、洪水のために社殿流失し、大安寺村に漂着せるにより、ここにまつれるなりと。その後神社を元の千代に持ち帰りてまつりしことありしが、神の崇りにて米の出来不作なりしかば、遂に大安寺にまつりしという。

(『磯城郡川東村外三ヶ村風俗誌』より)

3.流れ祠の話

 千代の八条(はっちょう)と阿部田(あべた)との間に、むかし小さな祠がまつられてありました。ある時洪水があって、この祠は北の方向へ流されました。いま、阪手北の阪手池のオオダレという地に大きなイチョウの大木があり、その近くのモチの木の根方に祀られてあるのがそうだということです。しかし定かなことは分からないそうです。

 このほか西竹田の八王子さんは、飛鳥の雷丘(いかづちのおか)に祀られていたのが、洪水のために流されて来たという話。佐味のハッタはんも、洪水のために字「初田」に流れ着き祀られたという話など、洪水によって流れ着いた場所で祀られて、その他の人々の手でいまも護られているのです。

狐の話(広報たわらもと1991年9月号掲載)

狐と狸のイラスト

 最近田原本町では、狐や狸はまったく見かけなくなりました。しかし、むかし狐や狸にだまされたという話は、いまも伝えられて残っています。

  1. ある秋の夜のこと。村の講の集まりがあって帰りが遅くなってしまいました。途中どうも後ろから人がくる気配。足音も聞こえます。一緒に帰ろうと足を止めると、後ろの足音もやみました。振りかえると提灯(ちょうちん)のあかりだけが一つ見えます。歩き出すと相手もついて来る様子です。驚いて再び振りかえると提灯が五つも六つも並んで見えました。これは狐か狸や!と、とんで家へ帰ったという話。
    また提灯を持って並んでいる狐を見たという話も聞きました。(法貴寺・富本(とんもと)・佐味・田原本などで)
  2. 豆狸(まめだ)(狸のこと)が提灯をもって、後ろからついて来たという話。(法貴寺)
    そういえば「雨のしょぼしょぼ降る晩は、豆狸が徳利持って酒買いに」という歌があります。ひょっとして近くの酒屋へ行くのでしょうか。
  3. あれはお寺の坊さんやった。その日はえらい天気やのに、向こうから尻からげ(着物のすそをまくりあげて帯びにはさむこと)して、「えらい水や、えらい水や」言うて、つま先立って歩いてきよる。
    「おまはん何してんねや?」と聞いたら、坊さんキョトンとしとる。「さてはおまはん狐にだまされたな!」。後ろの方で狐がコーン。(法貴寺)
  4. むかし小室(こむろ)に弁天湯という名の風呂屋があって、しまい風呂に入った帰りでした。魚町(うおまち)通りを帰る道で、後ろからカラコロカラコロと下駄の音がしまんのでな、後ろ振り返ったら、それはそれはすごい別嬪(ぺっぴん)さんが歩いて来まんね。それがな、ちょうど瓜七(広川)の店の前まで来たら、下駄の音がしやんようになったんで、ひょっと振り向いたら、どこにもその女の人いまへんのや。だいぶ昔の話だっけど、今思うてもゾッとしまんねわ。たぶん狐やったと思いまっさ。(田原本)
  5. 八尾の稲荷山に昔白い狐がいたといいます。また町内には、狐の名のついた塚や地名がのこっています。
    「狐塚」(八田・味間)、「ケッテン塚」(多)、「狐山」(保津)。平野村史によると、保津の小字(こあざ)北浦を俗に「狐山」といい、楕円形の古墳があったそうです。昔ここに狐が住んでいて、化けて出たそうです。
    また「狐塚」などは、狐を田の神のつかいとして祀ったといわれています。ただ土を盛って祀ったものもあれば、大和郡山市の狐山古墳などもあって、形や伝承はさまざまです。

次回は『蛇の話』『橋の話』です

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