田原本町に伝わる昔話 - 第11話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

蜆(しじみ)(広報たわらもと1991年1月号掲載)

 字小室(こむろ)に小さな祠(ほこら)があり、弁財天(べんさいてん)をまつっています。この北側に弁天川(1)が流れていて、ここに白い蜆(2)がいます。これを食べると眼病がよく治るので奇薬だといわれています。

(『大和の伝説』高田十郎編-大和史蹟研究会)

しじみのイラスト

(1)弁天川
古老の話では、細い流れの川に、昔はシジミがたくさんいたという。

(2)蜆
シジミは貝類一のコハク酸を含み、肝臓を活性化させるので、黄疸(おうたん)の特効薬として有名。またトリ目、寝汗の妙薬、造血作用、疲労回復と用途は広い。

(参考図書『旬の食べ物には驚異的な薬効あり』朝日マラソン)

美女をかみ殺す弁天さん(広報たわらもと1991年1月号掲載)

 矢部の神社(杵都岐(きつき)神社)に弁天さんがまつってあります。もとは団栗山(どんぐりやま)古墳(1)にまつられていましたが、この弁天さんは嫉妬深い神さんで、自分より美しい人を見るとかみ殺すといわれています。

(南小学校区『郷土読本』より)

(1)団栗山古墳
矢部のタカツキというところに、昭和十年ごろまで前方後円墳があったという。昭和十二年に道路を新設するにあたり、この塚の土を運び出したり、移設したという。

春日さんの中の弁天さん(広報たわらもと1991年1月号掲載)

弁財天のイラスト

下之庄(三笠)の春日さんにまつられている  弁天さんは、自分の姿があまり良くないので、この下之庄では美しい女の児は産ませないとか。それでむかしむかしは美しい女の子はいなかったとか。でも今は美人ぞろいですよ。

(「郷土の歴史教室」から)

ここまで弁天さんにまつわる話をしてきました。

 弁財天はふるくインドでは、サラスヴァティーという河神として崇拝されていました。我が国では大地を水で潤す五穀豊穣の神として信仰されたほか、言語や音楽の神としても崇敬されました。

 弁財天は七福神の一つに数えられ、美しい女神として人気がありますが、反面嫉妬の強い神と言われ、夫婦連れで参詣するとかえって神罰があたると信じられているところもあります。ふるく弁天の社は女人禁制であったために、こういった話が信じられるようになったのかも知れません。

 どうも女神には嫉妬する神が多いようです。小室にも「ベッピンがいない」とか、法貴寺の池神社は幡織(はたおり)(機織)の女神がまつられていて、村にきれいなお嫁さんが嫁いでくると、幡織の神さんが嫉妬する(やく)という話があります。

神仏にまつわる話

1.宮古(みやこ)の「まめ薬師」のことなど(広報たわらもと1991年2月号掲載)

 宮古に小さな薬師堂があり、その中に大きな木造の薬師如来(1)がまつってあります。この薬師さんは耳薬師・まめ薬師と呼んで、耳の病を癒(いや)してくれる仏として親しまれています。

 堂内には木製の錐(きり)が供えられ、糸でつるされていて、その錐で不自由な耳をこすると良いと伝えられています。

 薬師さんはことに諸病平癒(しょびょうへいゆ)に御利益(ごりやく)があると信じられ、病をもつ人はその病が治るように祈りをささげました。「まめ薬師」のまめは、達者、健全という意で、人々はいつも「まめ」であることを祈ったのです。

 錐は孔を開けるものですから、耳の孔をよく通してくれるという意味があって、錐が供えられるのだそうです。

 法貴寺の千萬院(せんまんいん)には、木造薬師如来像とその眷属(けんぞく)である十二神将がまつられています。人々は諸病を癒してくれる仏として、千萬院そのものを薬師(やくっ)さんと呼んで親しんでいます。しかし眷属の十二神将にさわろうものなら、急に腹痛がおこったり、病気になるというのです。

 また同所にまつられている木造不動明王(2)も、これをさわったり動かしたりすると、たちまちに祟(たたり)があるといって、人々はさわることを大変に嫌います。

 このようにさわることを嫌う仏がいる反面、さわっても良いとする仏がいます。木造の賓頭盧尊者(3)(びんずるそんじゃ)像がそれで、自分の体のどこか悪いところがあれば、仏のその部分をさわると病が癒(い)えるというのです。いまも頭や肩が多くさわられているようで、その部分は光って見えます。

(1)薬師如来
薬師瑠璃光如来(るりこうにょらい)とも呼ばれ、瑠璃光をもって衆生(しゅじょう)の病苦を救ったり、内面の苦悩を除くなど、十二の誓願をたてた如来で、日本では七世紀ごろからその信仰がさかんになった。三尊像としては、脇侍(わきじ)に日光(にっこう)・月光菩薩(がっこうぼさつ)を従え、さらに眷属として十二神将が加えられることもある。

(2)不動明王
五大明王の中心的存在の不動明王は、大日如来が一切の悪を降ろすため、忿怒(ふんぬ)相に化身(けしん)したとされ、火焔(かえん)をもって汚れを焼き浄め、衆生を護(まも)ると信じられている。平安時代初めから今に至るまで、根強い信仰があり、法貴寺千萬院の場合は、脇侍に矜羯羅(こんがら)・制叱迦(せいたか)の二童子がひかえる。

(3)賓頭盧尊者
十六羅漢(らかん)の第一尊者の名を賓頭盧と呼び、食堂(じきどう)に多く安置されている。我が国では後世、この像を撫でさすれば病が癒せるとの俗説から、寺の外陣や軒下に置かれ、「おびんずるさま」とか「びんずるさん」と呼んで親しまれている。

(参考図書-『暮らしの中の神さん仏さん』河出文庫。『仏像のかたちと技法』奈良国立博物館編。『田原本町の佛像』田原本町教育委員会編)

2.淡島はん(広報たわらもと1991年3月号掲載)

 幼少のころ、「淡島(1)(あわしま)はん」という背に祠(ほこら)を負い、きたない風体で門(かど)づけに来た人物がいました。

 祠から赤い布や髪などがのぞいていて、異様な感じがした記憶があります。

 よくごんた(だだをこねること)を言ったり、やんちゃをすると、大人から「淡島はんがくんど(来るぞ)」と言われ、恐怖をおぼえたものです。その淡島はんも戦後しばらくして、その姿を見かけなくまりました。

(「郷土の歴史教室」から)

(1)淡島
紀伊半島の西の突端、加太岬に加太神社があって、諸国にまつられる淡島さんの本拠で、婦人病の神様といわれる。
この神は女性で婆利塞女(はりさいにょ)ともいい、天神の六番目の姫として十六歳の春、住吉明神の一の妃(きさき)となったが、下の病気にかかったので、うつろ舟に乗せられて堺の浜から流され、三月三日に加太の浦の淡島に流れ着いたという。以降、同情悲願によって、その病苦のものを治す誓いをたてたのだと伝える。
かつては淡島乞食なるものがいて、背に厨子(ずし)を負い、毛髪や櫛(くし)などをいっぱいにさげて、一種怪奇な雰囲気をかもしだして徘徊(はいかい)していた。これが江戸時代中ごろから淡島願人(がんにん)と称して、淡島さんの功徳縁起を説き、夫人たちに信仰をひろめた布教者であった。
加太では三月三日の節句に、流しびなを流したり、神社では淡島雛がお守りとして売り出される。

(参考図書『暮らしの中の神さん仏さん』河出文庫)

次回は『不自由な足を治した地蔵さん』です

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