田原本町に伝わる昔話 - 第2話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

黄金の鶏が鳴く塚 (広報たわらもと1989年12月号掲載)

 むかしむかし、田原本町の阪手におじいさんとおばあさんが住んでいました。たいへん仲良く暮らしていましたが、おばあさんは眼を患い、見えなくなって困っていました。

黄金の鶏のイラスト

 ある大晦日に一人の物もらいが訪ねて来ました。このおばあさんは物もらいをよく労って、お正月のお餅をあげました。すると物もらいは帰りがけに、「よいことを教えてあげよう。明日の元旦に村の人たちがまだ起きないまえに、あの小金塚にお参りなさい」と言い残して行きました。

 おじいさんとおばあさんは言われた通りに元旦に早く起きて、その塚にお参りしました。すると一羽の黄金色の鶏がどこからともなく現れて、東を向いて「コケコッコー」と一声大きく鳴きました。すると不思議にもおばあさんの眼がパット開きました。それから二人は楽しく余生を送ったと言うことです。(『子供のための大和の伝説』乾健治から)

※田原本町で古墳の形をとどめているものとしては、黒田の大塚古墳が有名ですが、田原本町のように平たんな土地では古墳は極めて少なく、その代わり「塚」と呼ばれるものは五十余りもあります。いずれも農業や牛馬の神として、また村人を災いから守るものとされ、野神信仰の地として、「ハツオ」(初穂)、「ハッタ」「八王子」「ハジョウ」(歯竜王)「クサガミさん」などと呼んで、今も信仰をあつめています。そこにはヨノミの大樹やセンダンの木などが植えられていたり祠がまつられていたりして、たたり地となっているところが多いのです。

十六の面(広報たわらもと1989年2月号掲載)

翁面(おきなめん)のイラスト

 昔、西竹田に猿楽師(さるがくし)が住んでいました。姓を金春(こんぱる)といいました。

 ある日天から十六(じゅうろく)という面(おもて)が落ちて来ました(一説には十六枚の面ともいわれています) 。

 そこで面の落ちた所を十六面(じゅうろくせん)というようになったそうです。

 十六という面は、若い美しい公達(きんだち)をあらわし、平敦盛(たいらのあつもり)(1169~1184)が十六歳で戦死したことから名付けられています。この十六という面をつけると気が狂ったようになるので、金春の息子は能楽師として家を継ぐことをあきらめて、この面を御神体として祀ったのが十六面の一杵島(いっきしま)神社だといわれています。面づくりは大綱と富本(とんもと)に住んでいたそうです。

 十六面はもと富本と一つであったのが、寛永(1624~1643)のころに分立したと伝えられ、それで富本の伏せ字から十六面をトムオモテと呼ぶようになったとも言われています。また西竹田には、今も金春屋敷といわれるところがあります。(『平野村史』から)

※「金春流」は大和猿楽四座の一つで、古くは円満井座・竹田座といいました。鎌倉時代から興福寺春日社に奉仕しており、金春と称したのは南北朝時代の金春権守あたりからと伝えられています。十六は能面の一つで、少年の面として使用され、能楽「敦盛」「経政」「朝長」などに用いられます。田原本町には能に関する土地が他にもあります。味間の補巖寺は世阿弥夫婦の関係するお寺であることは古くから知られているところです。

 また法貴寺の舞庄(まいのしょう)の発掘調査では、室町時代の翁面(おきなめん)(父尉(ちちのじょう))が出土しました。この面は能面の中でも最も神聖視され、神能「翁」を演じるときに用いられるものです。出土地である舞庄は、おそらく能に関係のある人々が住んでいた所でしょう。

 このように田原本町は、能に関係する大和の一中心地でもあったのです。

次回は「蛇巻きの由来」「流れ地蔵のはなし」です

この記事に関するお問い合わせ先
担当課:図書館
電話:0744-32-0262