田原本町に伝わる昔話 - 第14話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

蛇の話(広報たわらもと1991年10月号掲載)

 昔、古い家などでは、家の梁(はり)をつたって移動する大きな蛇を目にしました。二メートルちかくもある長く太い蛇が頭上をつたうのですから、家人、特に子供にとっては気持ちが悪く異様な光景に恐怖をおぼえたものです。

 棒や箒(ほうき)を持って追い払おうとすると、「この蛇は家の主やから追うたらあかん。大事にせんとあかん」といい、線香をたいてその煙で追いました。するといつの間にか蛇は姿を隠しましたが、家の主ということは、蛇を目にしなくとも、家のどこかに潜んでいて、中をうかがっているのではないかと不気味に思ったものです。

 この蛇は青大将(あおだいしょう)とかアオンジョと呼ばれ、家のネズミを捕ってくれるといいます。天井を駆け回るネズミの足音と、それを追う蛇のはう音、ネズミの悲鳴を聞いたりして、眠れぬ夜があったものです。

 蛇は脱皮をして大きくなります。脱皮はおおむね秋で、そのころにはよく抜け殻を見かけます。「蛇の抜け殻をサイフに入れておくとお金がたまる」といい、サイフに入れている人もありました。

蛇のイラスト

 また、蛇を指すとその指が腐ってしまうといい、もし誤って指せばすぐツバを指にかけると良いなどともいいました。この話は「大和百譚」に、「蛇を指せば指くされ落つとて指ささず、握り拳にて指す。あやまちて人指し指にて指せば直ちにツバケ(唾液)をそのにかく。また爪類を指せば爪腐りおつて忌む」とあります。

 田原本地方では、蛇を「くつな」とか「ながもん」と呼び、古くから水神の化身と信じられていました。稲作にとっての水の神は穀物の豊作をもたらす神であり、田の神としても信仰されてきたのです。

 これらの行事には、重要な田植えの月である五月の重日(月と日の数字が重なる日)に行われる鍵の蛇巻きと今里の蛇巻き(現在は六月の第一日曜日)に、稲作の成功を祈るきわめて大切な農耕の儀式が残されています。これらを祀(まつる)る地を初穂、ハッタなどと呼んでいて、特に今里の古老は「ナガモン」を祀るのだといいます。そういえば、田んぼの間をぬう水路は、蛇が蛇行する姿に似ているではありませんか。水は農耕に欠かせないものであり、農業にとって水は命であったのです。

(「郷土の歴史教室」より)

【橋の話】(広報たわらもと1991年11月号掲載)

1.行幸橋(ぎょうこうばし)

 八藩町の南詰め。太神宮の石灯ろう(「明治二巳年一の銘がある)の近くに架かっている橋をいいます。石の橋柱には「行・・・」の文字がみえます。

 八藩町を南北に通る道は、昔、中街道(なかかいどう)と呼ぶ県道で、さらにふるくは下ッ道(しもつみち)ともいいました。

 本来この道に架かってた橋は大変に狭かったそうですが、大正十年ごろに広げられたということです。

 八藩町を片端町ともいって、大正から昭和初期にかけての作家中里介山(一八八五~一九四四)が、大作「大菩薩峠」(大正二年~昭和十年にかけて書かれた長編小説。作者の死によって中絶。未完)の中で、主人公の机竜之介を歩かせたのも中街道であり、片端街であり、中川に架かる「行幸橋」(「みゆき橋」とも呼ぶ)だったのです。

 「・・・大和の国八木の宿。東は桜井より初瀬にいたる街道、南は岡寺、高取、吉野等への道すじ、西は高田より竹の内、当麻への街道、北は田原本より奈良郡山へ、四方十字の要路で、街の真中に札の辻がある。竜之介は西から来てこの札の辻の前に立った・・・略

 町を少し行くと饅頭屋(まんじゅうや)。黒崎というところから出た名代の女婦饅頭「黒崎といえども白き肌と肌、合わせて味い女夫まんぢゅう」と狂歌が看板に書いて出してある。この店に入って行った竜之介・・・略

 この店を出た机竜之介、田原本の街道を取って北へと歩いて行く。・・・略

 ところへ、田原本の方から早足で歩いてくる旅人。それは裏宿の七兵衛であったが、すれちがって竜之介の方で、それと気のつかなかったのは無理もないが・・・」

(大菩薩峠」「千生と島原の巻)

 ところで「行幸橋」の名のおこりは、明治十年の明治天皇の田原本行幸をはじめとして以降、国道二十四号線がつけられる昭和十五年まで、敏傍方面などへの通行の際、天皇はこの橋を渡ったのです。人々はいつのころからか、この橋を行幸橋、みゆき橋と名付けました。

 「たびたびの巡幸で全国をくまなく巡ったことで知られる明治天皇が、この大和の地にはじめて足を踏み入れたのは、明治十年(一八七七)二月のことである。今回は敏傍陸参拝がそのおもな目的であった。わずか五日間の滞在とはいえ、大和の人々にとって、それは大きなできごとであった。満二十四歳の天皇に対する期待も大きかった・・・略

 明治十年二月十日、小雨となったが予定どおり出発。春日参道から辷坂を経て城戸通りを南下し、横田村・平群郡上之庄村で小休、さらに田原本の浄照寺で昼食をとり、今井の町に到着した・・・」

(『奈良県誕生物語り』-青山四方にめぐれる国-奈良県-より)

 このころの様子を知る人はありませんが、橋の名前一つにしても歴史があり、人々の生活を探ることができます。茂吉という人の奉仕によって架けられたという「茂吉橋」(室町)、むかし浜があったので「浜橋」(松本)、大字間の頭文字をとった「太平橋」(大木・平田)、川の名前から「西門橋」(法貴寺)としたもの、また簡単に小字名から名付けたものなど様々で、あげてみるときりがありませんが、その名を調べてみるのも面白いでしょう。

 また橋に書かれている銘板には漢字と平仮名が使われていますが、橋や川を平仮名で書く場合は、「○○ばし」「○○がわ」とにごらず「○○はし」「○○かわ」としています。川の水が濁らず、美しくきれいであるようにという大きな願いがこめられているのです。

【観音様の開けずの箱】(広報たわらもと1991年12月号掲載)

 多の集落と多神社との間に、木造の十一面観音像(平安時代後期の作、寄木造)をまつる観音堂があります。観音講の人たちによってまつられ、毎年一月三日の早朝に「ボダイボダイと牛蒡食(ごぼうく)い」の行事が行われます。

むかしむかし、多村には多神社の宮講と観音堂の観音講の二つの講のグループがありました。あるとき一時的に観音講の勢力が強くなって、宮講との争いになったことがあったそうです。同じ村の人でありながら、講の人たちどうしがケンカをしたのです。こもとき、多神社の宮司が仲裁に入り、同じ形の箱二つに、それぞれ「仲良くする」と誓いあった証文を入れ、「この箱はいっさい開けない事」の約束をして、現在もなお講で保管されているそうです。「この開けずの箱」の中身はだれも見た事は無いそうですが、たぶん何も書いていない白紙が入っているではないかということです。

 さて、多の観音講の「ボダイボダイと牛蒡食い」の行事ですが、八寸に切った生の牛蒡に石うすで引いた生大豆の粉をふりかけて焚いたものをお供えし、一尺八寸の女竹(田原本地方では「ススンボ」と言っている)で「ボダイボダイ」と唱えながら、お堂の床を激しくたたき、女竹を割ります。終わるとボダイボダイの竹二本を家へ持ち帰り神棚に供え、小正月のお雑煮を炊くときにその竹で造った箸で火を付けるそうです。

 年に一度のこの行事は、年の初めに観音様の居眠りをさまし、さらに仏にも、そしてお参りする人々の心にも正念を入れ、破竹の勢いで新しい年を過ごすという意味があると伝えられています。またこの観音様は二度も盗難に遭いながら、外国へ流出する寸前に無事帰って来られたとも伝えられています。

(「郷土の歴史教室」より)

次回は『松の下の塚』『おばけと幽霊話』です

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