田原本町に伝わる昔話 - 第12話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

3.仲の悪い神さんと仏さん(広報たわらもと1991年3月号掲載)

 むかしむかし、味間(あじま)の須賀(すが)神社(1)の神さんと西福寺(さいふくじ)(2)の仏さんとは、いつも仲が悪く喧嘩(けんか)ばかりしていたそうです。喧嘩をすると村では不幸な出来事がおきました。いまも村に悪い出来事があると「神さんと仏さんが喧嘩した」というそうです。

(郷土の歴史教室から)

(1)須賀神社
須佐之男命(すさのおのみこと)をまつるこの神社に、味間の祖神(そしん)とされる阿志間美命(あじまみのみこと)もまつられている。昭和三年に神社が改築されたおり、吉野神宮の建物をもらい受け、村人たちが大八車で吉野から運び帰り、建てたのが現在の社だという。

(2)西福寺
室町時代前期の作である阿弥陀如来を本尊とする寺で、浄土宗。

4.不自由な足を治した地蔵さん(広報たわらもと1991年3月号掲載)

 秦楽寺(じんらくじ)の土蔵門の東向かいにある地蔵さんは、むかし草むらに捨てられていたのを足の不自由な男の人がここにまつり、いつもお祈りをしていました。やがてその男の人の足は治ったといいます。地蔵堂の前の石灯ろうには、天明六年(1786)庄やしき村源衛門寄進の銘(めい)があります。

(田原本南小学校『郷土読本』より)

 地元の人の話では、秦楽寺では一番古いお地蔵さんと伝えられているそうです。

 毎年七月二十三日の地蔵盆には、子どもたちもお参りして、にぎやかにお祭りが行われます。

5.不動明王のたたり(広報たわらもと1991年3月号掲載)

お地蔵様のイラスト

 むかしむかしのある日、蔵堂(くらんど)の村屋神社にまつられていた不動明王の掛軸を、どういう理由かわかりませんが、村人が捨ててしまいました。

 その年、村中に訳の分からない病気がひろがりました。いくらお医者さんに診(み)てもらっても、神や仏にお祈りをしても治りませんでした。そこでこれはお不動さんの祟(たたり)だといって、石にお不動さんを刻んで安置し、みんなでお祈りをしました。するとたちどころにみんなの病気が治ったということです。

 今は初瀬川(はせがわ)の改修によって、蔵堂橋の南側に新しい祠(ほこら)が建てられてまつられている「不動明神」がそれだそうです。地元では「お不動さん」と呼び、かつては橘(たちばな)街道に面して、西向きにまつられていました。

 はるか南方、笠形(かさがた)の郡分(こおりわけ)観音とともに壬申の乱以降、村人の生活を見守ってきたにちがいないこの不動明王は、蔵堂の村人はもちろんのこと、村外の人々からも信仰をあつめて、いまも線香や灯明がたえないといいます。

 ほかに、この不動明神にまつわる話として、むかしむかし、初瀬川に埋まっていたのを拾い上げてきてまつったとか、伊与戸(いよど)の地蔵のように、川に流れて来たのをまつったなど、話は長い時代とともにとぎれとぎれの伝承となって、まさに消えようとしています。

(郷土の歴史教室より ほかに地元の方々にも話をうかがいました。)

6.八尾の首切り地蔵(広報たわらもと1991年4月号掲載)

 八尾の薬師堂の入り口、中(なか)街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられています。むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに地蔵をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。

(郷土の歴史教室より)

 首切り地蔵で有名なのは、柳生(やぎゅう)街道にある「首切り地蔵」ですが、これは宮本武蔵が宝蔵院試合のあと、柳生の里に但馬守を訪れる途中、石地蔵を一刀のもとに切り捨てたで、この名が付いたという話です。

(『奈良の旅』松本清張・樋口清之 光文社)

 しかし、八尾の「首切地蔵尊」はもっと現実味のある話ですね。しかも下ッ道(しもつみち)(中街道)沿いにあることや、付近に薬師堂、大日堂がのこっていることなどから、この首切り地蔵も古くから村人に親しまれてきた仏にちがいありません。

7.眼の病を治す観音さん(広報たわらもと1991年5月号掲載)

 県営住宅笠形団地の南西寄りに「郡分観音(こおりわけかんのん)」が祀(まつ)られています。元はもう少し東の方向「郡分」という場所にあったそうです。

 条里(じょうり)で城下群(しきげこおり)、城上群(しきじょうこおり)、十市郡(とおいちこおり)が接するところから「郡分」と呼ばれ、その地に祀られている観音さんなので「郡分観音」と名付けられたということです。

 この観音は現在の土地に落ち着くまでには三回ほど移動しているそうですが、昭和十年ごろにこの地を歩かれた土井實氏は「磯城(しき)」という本に次のように書かれています。

守屋の郡分観音

 川東村守屋(もりや)の傳承(でんしょう)郡分観音は、舊(ふる)く式上郡と十市郡との郡分にあるといわれているが、小流の北側に小溝に囲まれ巨樹数本あり、俗に「狐塚(きつねつか)」と呼ばれている。中央に小祠址(しょうしあと)あり、中に背光五輪の碑あるのみ。碑は最下部に「田」のごとく見える字ある外一切文字の形なし。

 然(しか)し小祠の前に石燈の竿及び火袋など、草中に點在(てんざい)す。竿に「郡分 觀世音菩薩」、他の面に「村中」の字あり。

 蓋 (けだ)し此の地は古墳なるものの如く遺存品よりみて、嘗(かつ)て觀世を祀りいたるもので、何時の頃にか分散してしまったものであら(ろ)う。郷土史研究上かう(こう)したものの究明にも心すべき事であると思ふ(う)。

 さてこの観音さんは今も眼の病を癒してくれるとして、地元の信仰をあつめています。672年におこった壬申の乱は、現在の森屋神社付近でも激しい戦いになったそうです。この時一人の兵士が眼を負傷して失明しました。夢で森屋神社の南六丁の所に埋もれている石を掘り起こし、これを信仰せよとの神のお告げがあり、兵士は毎日信仰にはげみ、三・七・二十一日目に眼が見えるようになったということです。

 笠形では毎月十七日を観音さんの日として、講の婦人たちが参詣しています。

 また地元の農家では「ウリ観音ナス地蔵」といって、ウリの花が咲いてから十七日目を、またはナスは二十三・四日(地蔵盆の日)を収穫の目安として、いまも観音伝説とともに言い伝えています。近く東側は中ツ道(橘街道)が北進し、古代の面影を唯一残しています。

(郷土の歴史教室より)

8.秦楽寺(じんらくじ)のつり鐘の話(広報たわらもと1991年6月号掲載)

つり鐘のイラスト

 天明のころ(1781年~1788年)から死亡する文政四年(1821年)にかけて、秦庄(はたのしょう)の秦楽寺村浄土寺に、恵実というお坊さんが住んでいました。この人は九州阿蘇の下田村(現在の熊本県阿蘇郡長陽村)から出て来た人でした。

 享和四年(1804年)、恵実の父の十七回忌のために、秦楽寺村の観音寺(田原本の本誓寺末寺で「高日山観音寺」、いまは廃寺)に二つあったつり鐘の一つを、出身の光雲寺(浄土真宗本願寺派=延徳二年《1490年》の開基)というお寺に寄付をしたいと考えました。理由は、当時光雲寺にはつり鐘がなかったためで、なぜ無くなったのかについて次のような伝説があります。

 阿蘇を発した川は南山ろくを流れ、白川となって光雲寺の近くを流れて有明海にそそぎます。その白川筋、寺の近くに「鐘が渕(ふち)」と呼ばれる渕があります。

 むかしむかし、下田村に雨の降らない日が続きました。村人は雨乞をしようということになり、光雲寺のつり鐘を河原に持ち出し、鐘に水をかけて祈とうをいたしておりました。するとたちまち空は黒い雲におおわれて、大雨となりました。川は増水し、鐘をひきあげる間もなく水没してしまい、以来その場所は渕となってしまいました。今もそこを「鐘が渕」と呼んで、鐘が沈んでいると伝えています。

 このようなことから、九州光雲寺のつり鐘は無くなってしまったのです。ですから寺の法要などの時には、近くのお寺からつり鐘を借り受けて、用をつとめていたということです。

 大和にいる僧恵実は、いつもこのことを気にかけておりましたから、父の十七回忌を契機に、つり鐘の寄附を思い立ったのでしょう。寄附の申し出を受けた光雲寺ではつり鐘を譲り受けるために、早速と寺社方奉行に願い出ています。享和四年(1804年)のことです。

 しかし記録はここまでて、奉行の許しが得られて、大和から九州光雲寺へつり鐘が届いたのかどうか、届いたとしてもその鐘が使用されていたのかどうか、またそれ以降お寺どうしの交流があったかどうか、記録はまったく残っていないため定かではありません。

 現在光雲寺で使われている鐘は、戦後の昭和二十五年に制作されたものだそうです。第二次世界大戦中には、鉄や銅製品など金属品はことごとく没収され、軍需品として使用されました。お寺の鐘はほとんどが対象になったそうです。恵実がはるばると九州へ贈り届けたつり鐘も、ひょっとしてそんな憂き目に会ってしまったのかも知れません。また、秦楽寺村で死んだ僧呂恵実の墓も見つけることができません。

(参考図書『紙本自描方廣寺大佛再造画の考察』-田原本町-より

次回は『流れ伝説』です

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