田原本町に伝わる昔話 - 第9話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

地名にまつわる話 その2

7.「浜」(広報たわらもと1990年8月号掲載)

 今里の西側、寺川堤今里橋の付近のことを言います。

 昔より明治25年ころまで、寺川の水流を利用して盛んに舟をやり、大阪より堺に入り、堺よりこの濱に至る間、諸の荷物の運輸をなせり。これより濱というにいたり。この地にある人家をも濱と通称するに至れりと。

(磯城郡川東村外三ヶ村風俗志より)

 大和川の水運は亀瀬(かめのせ)(三郷町・王寺町)の河上に露出した岩磐のため、ここを境に上流・下流で二分されていました。上流は魚應(やな)船が、下流は剣先船が就航していました。享保期(1716~1735)の記録では、初瀬川筋は嘉幡、寺川は今里、飛鳥川は松本までさかのぼることができました。そこには浜(港)があり、問屋の倉庫が並んでいて、各地に陸送する人馬が常備されていたといいます。

 しかし明治25年に大阪鉄道(いまのJR関西線)の開通によって、大阪と大和盆地間の物資の交流は、これに奪われてしまうことになりました。いまは今里にも松本にもその面影はありません。松本では「浜橋」という橋の名にのこすのみです。

8.「韓人(からひと)ノ池」(広報たわらもと1990年9月号掲載)

 川東村大字唐古にあり。應神(おうじん)天皇(1)の7年高麗(こま)の人、新羅(しらぎ)の人、任那(みまな)の人を役して池(2)を作る。これを韓人の池といい、式下高等小学校(3)の東部にある小さき堀なり。俗にこれを柳田の池又は御堀(4)ともいう。

 昔よりこの池には菱生せずといい、又この池の魚はその味他の魚に勝れりという。

(磯城郡川東村外三ヶ村風俗志より)

(1)應神天皇
15代天皇とされている。

(2)池
高麗人・百済人・新羅人等韓人は、朝鮮史上三国時代の古代国家の人々のこと。任那は百済と新羅の間に位置した国で「加羅」ともいわれる。

(3)式下高等小学校 今の農産加工場の場所に昭和9年まであった。

(4)柳田の池又は御堀
唐古集落センターから北方にあった堀をいう。また唐古の小字「柳田」の地も、昔は池だったと古老の話がある。

9.「薬師畑」(広報たわらもと1990年9月号掲載)

 川東村唐古の北部、唐古の北二町ばかりのところにある畑(1)なり。近く明治の初年まで養福寺とて薬師堂のありしところなるがゆえに「薬師畑」という。現今その跡に唐古尋常小学校(2)の設置あり。

(磯城郡川東村外三ヶ村風俗志より)

(1)畑
現在工場が建っている。この土地を薬師畑といい2の薬師堂があったという。昭和11年に現在の場所に移されたと古老の話。本尊はもちろん薬師如来で、天文19年(1550)9月16日 宿院佛師(しゅくいんぶっし)源次の銘があるから、養福寺薬師堂はおそらくそのころには存在していたことになる。

(2)唐古尋常小学校
昭和16年3月までは「尋常小学校」、以降は「国民学校」となり、22年「唐古小学校」に、31年の町村合併の後34年7月、学校統合により廃校となった。

ほとけのイラスト

 8月8日、養福寺では女性のお年寄りが集まって「薬師講」が営まれます。そこでうかがった話をしましょう。

 一、唐古の薬師(やくっ)さんはなあ、「ゆうべの願い今朝かのた」いうて、夜に願い事をすると翌朝にはかなえてもらえる仏さんやといわれています。

 むかしは児(こ)が無(の)うてほしい時や、反対にできすぎてもう産まれんようにと願(ねご)うたら、すぐ効き目があったと聞いています。

 二、むかし、郡山のお殿はんが、馬にまたがって薬師さんの西の道を通らはってんと。そしたら馬が前足を跳ね上げて進もうとしよらんかった。お殿はんは馬から落ちやはったそうや。

 お殿はんは、東の方に薬師さんがまつられたんのを聞かはって、土下座して拝まはったら馬は動いたそうや。それからお殿はんは、ここを通る時は必ず馬から下りて、歩いて通らはってんと。

 また「馬が拝んだ薬師さん」いうて話が残ってまんね。領主が馬にのって街道を通らはったら、馬がひざまずいて薬師さんを拝んで通ったそうや。そんだけありがたい仏はんやという話でっさ。

 ここに出てくる「道」は今ものこる古代の道「下ッ道」(中街道)をさしている。

10.「藤原」(広報たわらもと1990年10月号掲載)

 都村大字新町(1)、竹村氏ノ裏道(2)なり。むかし藤原鎌足公(3)の暫時休息せらしところなるがゆえに、藤原というに至りしという。

(磯城郡川東村外三ヶ村風俗志より)

(1)都村大字新町
昭和31年の町村合併以前の村の名。

(2)竹村氏ノ裏道
中街道(下ッ道)をはさんで付近一帯、約1.5ヘクタールが「藤原・フジ原・フシ原」という地名で残っている。

(3)藤原鎌足公
「藤原鎌足」(中臣鎌足)614~669年西暦645年6月20日(旧暦)、中大兄皇子(626~671年)らと共に、国の体制の大革新をめざしてクーデターを起こした人物。「乙巳の変」ともいわれる。この事件につづく一連の政治改革を「大化の改新」とよんでいる。

(参考図書「週間朝日百科【日本の歴史】・旺文社【日本史】」)

次回は『地名にまつわる話 その3』です

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