田原本町に伝わる昔話 - 第7話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

霜焼けのなおる川の水(広報たわらもと1990年2月号掲載)

 味間にある補巖寺(ふがんじ)の前から南へ流れる川に、月夜の晩に足をつけると霜焼けが直ると言い、小さいころに何回も足をつけにいきました。

 また、よく似た話があります。

 奈良の猿沢の池へ3年間つづけて満月の上がるころ、池の水に足をつけると霜焼けが直るというので、母に連れられて行きました。

※霜焼けは国語大辞典(小学館)によりますと「5~10度の軽度の低温環境にあって起こる一種の血管麻痺。貧血症、多汗症、栄養不足などの者がなりやすく、特に小児と女性に多い」とあります。

 以前子供たちはよく霜焼けになりました。学校でのふき掃除。家での手伝いなどをよくしましたし、冬には「こどもは風の子」と、寒風の中をほとんどのこどもは外で遊びました。ですからよけいに霜焼けが多かったのかも知れません。

 霜焼けは手や足にでき、それがくずれて足袋(たび)やホウタイが膿(うみ)で固まってしまいます。これを取り除く時は大変痛いものですから、湯の中につけて行ったものです。取り替えた後にはオババノケムリダシというのを患部に着けました。傷は癒えても今なお形の残っているひとを見かけます。

 「オババノケムリダシ」正しくは《オニフスベ》といい「ホコリタケ科」の一種。フットボール状で径10~14センチメートル。外皮は初め白色で厚く、成長につれて内部から出る液汁で汚れてしわができ、乾燥すると剥離して褐色の内皮が現れる。たたくと煙のように胞子が飛散する。解熱、解毒、止血、消炎薬などとして用いられる。

霜焼けのなおる川の水のイラスト

(大成漢方薬局の中岡富男氏のご指導を得た)

「オババノケムリダシ」 はその形状から、たぶん子供たちが名付け親かも知れませんね。

ウコギ(黄金木)の話(広報たわらもと1989年10月号掲載)

 北小学校の前の道をむかしは長岡街道と呼び、そこに昭和40年ころまでは大きな木がありました。その木を人々は「ウコギの一本木」と呼んでいました。今回はその木にまつわる話です。

 一、《黄金木》川東村鍵の東にある一本の巨樹なり、昔、平野丹波守が軍用金を埋めたるとこという。それよりこの木を黄金木というに至りしと。

(『磯城郡川東村他風俗志』大正4年・奈良県立図書館蔵)

ウコギ(黄金木)の話

 二、《砂かけババの木》大和昔譚(沢田四郎・昭和6年)に、「おばけのうちにスナカケババといふものあり、人淋しき森のかげ、神社のかげを通れば、砂をバラバラふりかけておどろかすといふもの、その姿見たる人なし」。という話がのこっています。

 似た話に、法貴寺の川堤にある大きなクロガネモチの木も「砂かけの木」といい、たたりの木とされています。

 三、《左甚五郎の狛犬》法貴寺の池神社に、むかし木造の狛犬がまつってありました。

 ある日の夜、ドロボウが来て狛犬を盗みだし、鍵の村の方へ逃げました。途中ウコギの大木の下に来るとその狛犬は突然ワンワンと吠えたものですから、ドロボウは驚いて狛犬をほうり出して逃げて行ったということです。この狛犬は左甚五郎の作として今も神社に伝えられています。

※「ウコギ」は『広辞苑』によると「夏、黄緑色の細花を簇生(ぞくせい)する」とあります。漢名では「五加(ウコ)」、「五加木(ウコギ)」と書き、その音や花の色からウコに「黄金(オウコ)」の文字があてられて黄金伝説が生まれたものと思われます。

 ただ鍵のウコギは、お年寄りの話では「榎(えのき)」 だったということですが、「黄金木」のほうがふさわしいと思います。

 また平野丹波守が軍用金を埋めたという話は、実は近くに字(あざ)「丹波山(たんばやま)」の地名がのこり、法貴寺丹波の平城跡(ひらじろあと)と推定されることから、話は作り出されたようです。

 法貴寺丹波は鎌倉時代、南北朝から室町時代初頭にかけて、奈良興福寺に奉仕していた中世の大和武士でした。この武士団を法貴寺一党とも呼び、糸井衆、森屋一党、八田・ 田原本南の諸氏と共に、十市氏を盟主とする長谷川党に含まれ、法貴寺領の荘官として活躍していました。

 平野丹波守は田原本平野藩三代目長政の事で、元禄13年(1700)に59歳で没しています。法貴寺一党が活躍していた頃から3、4百年も後の人物なのです。ですから『黄金木』のはなしは法貴寺丹波がふさわしく、話は『丹波』と『丹波守』がごっちゃになってしまったのでしょう。

次回は『地名にまつわる話』です

この記事に関するお問い合わせ先
担当課:図書館
電話:0744-32-0262