田原本町に伝わる昔話 - 第5話

田原本町に伝わる昔話のイラスト

魔よけのザクロの木(広報たわらもと1989年11月号掲載)

 古い農家などには、今もザクロ(柘榴)の木が植えられているのを見かけます。これは昔から魔よけとして植えられたものが多いようです。法貴寺の農家で次のような話を聞きました。

 「私(わし)の家の裏にあるザクロの木は、昔先祖が植えとかったもんや。昔の母はたいがい子供(こ)を七人も八人も産んだもんやが、私の先祖は子がでけよると、その子はじっきに死んでしまおったそうや。そんで、せやったら魔よけにザクロの木植えたらええというので、植えたんがこの木やそうや。おかげさんで、そっから産まれてくる子はみな元気でな育ってんがな。そやから私はこの世に居んねわ」という話です。

 この話に出てくるザクロは、田原本町方面では「ジャクロ」ともいいます。ザクロは仏語では「吉祥果(きちようか)」といい、人肉に似た味がすると言われています。律宗や日蓮宗寺院で主にまつられている「鬼子母神(きしぼじん)」が、このザクロの実を手に持っています。

 この仏は、梵語ではハリーティーといい、漢語で鬼子母神、音訳して訶梨帝母(かりていも)と呼ばれ、吉祥天(きっしょうてん)の母といわれます。

 この鬼子母神は千人の子供を産みました。しかし性質は邪悪で常に他人の幼児を食らう夜叉女(やしゃめ)でありましたから仏に一番末の子を鉢底に隠されてしまいました。鬼子母神は泣き悲しみ、子供を獲(と)られた親の苦しみを知って、改心したというのです。仏は今までの悪行を戒め、吉祥果を与えました。鬼子母神は以後仏教に帰依し、安産と幼児を守る神になったのです。

ザクロのイラスト

 鬼子母神信仰は奈良時代からひろまったようです。ふつう天女形で右手にザクロを持ち、懐(ふところ)に幼児を抱く姿で現されます。田原本町の寺院では三カ寺に四躯の木造鬼子母神がまつられていますが、いずれも江戸時代の作になるものです。

 今回の魔よけのザクロの木の話は、こうした鬼子母神信仰から生まれた話なのでしょう。

 晩秋、モズが鳴くころともなると、熟したザクロの実は不規則に裂けて、うす赤い種子を露出させます。甘酸っぱい味のする実を以前こどもたちはよく口にしたものですが、今では鳥の餌となってしまうのが多いようです。根は回虫、なかでもサナダムシの駆除薬として使われていました。

(参考図書『仏教のかたちと技法』奈良国立博物館編。『国語大辞典』小学館)

弘法大師にまつわる話(その1)(広報たわらもと1990年3月号・4月号掲載)

 一、大師像の下あごの傷

 千代の八条に本光明寺があります。本堂には弘法大師の座像がまつってあります。

 昔、庄屋がある日、ヘビを殺そうとしました。そこへ旅の僧がとおりかかって、「そんな殺生はおやめなさった方がよい」といましめました。庄屋は立腹して僧の下あごを鎌で切りつけました。

 旅の僧は「お前のしわざは七代までたたるぞ。」、八代目にはじめて罪が消えるだろう」と言って、どこかへ姿を消してしまいました。

 そこで大師堂へ行ってお祈りをすると、本尊の大師像の下あごから血が流れていました。さては大師さまが化けておられたのかと、それから一生懸命に信仰をするようになったということです。

 現に安置されている木造大師像の下あごには傷があります。

(高田十郎編『大和の伝説』より)

 二、梵字(ぼんじ)の池

 むかし、弘法大師が高野山から京都の東寺へ通われたとき、田原本町秦庄(はたのしょう)の秦楽寺(じんらくじ)に泊まられて、池のほとりの部屋で『三教指帰(さんごうしいき)』という本をお書きになりました。そのときカエルの声がやかましくて邪魔になるので、大師はおしかりになりました。それ以来カエルは池の中で鳴かなくなりました。

 そこで大師は、池をア字の梵字形でつくらせ、池の中に「三教島」をつくりました。バンの梵字池は百済寺(くだらじ)の境内に掘らせました。ウンの梵字池は与楽寺(よらくじ)の境内に掘らせました。百済寺と与楽寺はいまの広陵町にあります。これらの池はア・バン・ウンの三池といって有名で、ともに三教指帰を説き述べられています。

カエルのイラスト

 ところが二百年ほど前に百済寺の住職が、この寺の領主多武峰(とうのみね)寺の三坊にお願いして百済寺の梵字池のバンの字は、頭に「、」が抜けていたので「、」を付けて誤りを正すことをゆるされたといいます。「弘法も筆の誤り」ということわざがあります。

 アは胎蔵界(たいぞうかい)、バンは金剛界(こんごうかい)、ウンは蘇悉地(そしつち)のことです。

 弘法大師はいまの田原本町千代(ちしろ)の勝楽寺(しょうらくじ)(現在は本光明寺(ほんこうみょうじ)に自分で四十二体の像を刻み、寺を建て、境内に梵字池をつくり、秦楽寺のア字池、与楽寺のウン池とともに大和の三楽の池と言っています。

(『子供のための大和の伝説』奈良新聞社編より)

※千代の本光明寺にまつられている木造弘法大師坐像は、像高60.2センチメートルで玉眼の古色。
 寄木造で室町時代前期の作です。毎年二月二十一日には初大師の法要が営まれます。本光明寺はもと勝楽寺といい、重要文化財の木造十一面観音立像をまつっています。

※弘法大師(七七四~八三五年)名を「空海(くうかい)」といい、諡号(いみな)を弘法大師といいます。讃岐(香川県)に生まれた平安時代初期の僧で、真言宗(しんごんしゅう)の開祖(かいそ)です。
 十八歳の時に大学で外典を学びましたが、儒・仏・道教のうち仏道が最も優れているとして家出しました。804年(延歴23年)の入唐、806年(大同一)に帰朝しました。
 東寺を賜って真言道場とし、816年(弘仁七)高野山に金剛峰寺を開き、真言密教の高揚に努めました。また各地で灌漑用の池や井戸を掘ったといわれています。田原本町内でも同じ伝説が二三のこっています。
 弘法大師は書道でも三筆(嵯峨天皇、橘逸勢(はやなり)僧空海)の一人として有名です。

(参考書『日本史辞典』角川書店、『歴史手帳』吉川弘文館)

 三、つえが大樹になった話

 秦楽寺の春日神社にいまも菩提樹の木があります。

 むかし弘法大師が杖をさされて水をかけられると、そこから根が生えて大きくなったということです。

(『田原本南小学校区郷土読本』より)

次回は「弘法大師にまつわる話(その2)」と『お伽噺「蜘蛛と蜂と蟻の話」「小豆餅と団子の話」』です

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