「小林家文書」

小林家文書の写真と附「諸書物入木箱」1点の写真

 小林家が所在する「小室」は、田原本村の「本郷」にあたる集落であり、小林家は、江戸時代から明治前期にかけて、同村の庄屋や年寄、戸長や副戸長をつとめた家柄でした。その関係で、小林家には当該期の村方文書を中心に、若干の私文書も含めて1132点もの文書が伝存しています。

 小林家文書のなかで最も古い年代の文書は、文禄4年(1595)の「大和国十市郡田原本御検地帳」(写)であり、これによれば、当時村内には「小室」と楽田寺の周辺と中世城館の周辺にそれぞれ集落が存在していたことが判明します。

 この文禄4年(1595)から田原本村は、「賤ケ岳の七本槍」として有名な平野長泰の領地となりましたが、慶長7年(1602)に長泰が教行寺を誘致したことに伴い、寺内町が形成されるようになりました。

 その後、村内の町場は、二代長勝の入部と陣屋の建設(慶安元年〔1648〕に完成)、正保4年(1647)の教行寺の退去に伴って、旗本平野氏(交代寄合)の陣屋町に衣替えしながら、拡大・発展するようになっていきました。

 中街道が村内を南北に貫通し、今里浜にも近かった当村は、奈良盆地中央部における交通や流通の要衝にあたっており、17世紀半ば以降には、人々の往来や商取引の盛行に伴って、さらに地域経済圏の中心地として、また遠隔地取引や中継取引の拠点として、大きな役割を果たすことになりました。

 小林家文書について、第一に注目されるのは、こうした特色を有する田原本村の、太閤検地時点での集落の存在形態やその後の町場の形成・発展過程、町方のあり方や村方との関係などがうかがえる貴重な文書が伝存していることです。

 第二に注目されるのは、旗本平野氏(明治元年〔1868〕からは大名)の領地支配の拠点となっていた陣屋を描いた絵図や、廃藩置県後の郭内地の処分、秩禄処分に関する文書が見られることです。

 第三に注目されるのは、村方に関する文書が、江戸時代を中心に豊富に存在していることです。その内容は、土地・租税・村政・戸口・水利・産業・金融・民衆運動・習俗・寺社など、多くの分野にわたっており、田原本村の様相を明らかにするうえで、不可欠な文書群といえます。

 第四に注目されるのは、廃藩置県後、明治10年代前半にかけての行政のあり方や当村の様子がうかがえる文書も、かなり存在していることです。

 第五に注目されるのは、村の様子を視覚的に捉えることができる絵図類が多く存在していることです。そのほとんどは小字図ですが、元禄17年(1704)と明治15年(1882)のそれは全村図です。なかでも詳細な前者は貴重で、今後の活用が期待されます。

小林家文書の一部を紹介します

大和国十市郡田原本御検地帳(写)

大和国十市郡田原本御検地帳の写真

 文禄4年(1595)、大和で実施された太閤検地のうち、田原本村における土地台帳が「大和国十市郡田原本御検地帳」です。

 この検地帳は本帳ではなく、江戸時代の写しです。しかしその内容からは文禄4年当時における田原本村の土地割や石高などが読み取れ、およそ530石であったことがわかっています。数ある小林家文書の中で最も古い時代の資料という点も特筆できます。

田原本郭内絵図(左が北)

田原本郭内絵図(左が北)の写真

 明治6年(1873)の年号が残る、平野氏陣屋跡を描いた絵図です。寺川から水を引き込む水路や屋敷地などの土地割が明瞭に書き込まれており、当時の士族居住地を知るうえで大変貴重な資料です。

 陣屋跡は、現在の田原本町役場の南側になります。役場建設時の発掘調査では絵図どおりに屋敷地を区画する堀が確認され、その信頼性を裏付けています。

「小林家文書」 1,132点

種別

有形文化財(古文書)

所有者

小林敏良さん

時代

桃山〜昭和時代

附「諸書物入木箱」 1点

所有者

小林敏良さん

時代

江戸時代

この記事に関するお問い合わせ先

担当課:文化財保存課保存活用係
電話:0744-34-7100