田原本町に伝わる昔話 - 第17話
宮森の天(てん)神社の神(広報たわらもと1992年7月号掲載)
宮森(みやのもり)に天(てん)神社がありますが、この神社は珍しく北向きになっています。祭神は古事記の神話に出てくる少彦名命(すくなひこなのみこと)です。この神について次のような話があります。
オオクニヌシの神が出雲の国の美保の岬にいた時、波頭の白くたちさわぐ沖の方から、1.ガガイモの実の二つに割れたのを舟として、2.ミソサザイの皮を丸はぎにした着物を着て、次第に波の上をこちらの方に近寄ってくる小人のような神があった。
そこで名前をたずねたところ答えがない。お伴の者も知らないという。だれひとりとして知っているものがいない。
そこへヒキガエルが現れて、「これはきっと案山子(かかし)のくえびこのやつが存じておりましょう」と言ったので、案山子を召し寄せてその名を尋ねたところ「これはカミムスビの神の子である。少名昆古那(すくなひこな)神でございます」と答えた。そこで高天原(たかまがはら)にこの神を連れて行ってカミムスビの母神にこのことを申し上げたところ「たしかにこれは私の子どもです。沢山いる子どものうちで、指のまたからこぼれ落ちた子です。あなたと兄弟になって国をつくりなさい」。こう言われてオオクニヌシとスクナヒコナの神は力を合わせた・・・。
ところが、まだ国づくりができないうちに、この神は海の向こうの常世の国にいってしまった。
1.ガガイモの実は蘿と書く。原野に生えるガガイモ科のつる性多年草。茎や葉を切ると乳液が出る。夏に淡紫色の花を開き、果実は薬用になる。チチグサともいう。
2.ミソサザイは日本最小の小鳥の一つ。翼長約5センチメートル。日本全土に分布する。
※このことから、少彦名神は極小の神であることがうかがえます。よく似た話には「一寸法師」などがあります。
『田原本南小学校郷土読本』より、古事記(福永武彦訳)より
おばけと幽霊の話(広報たわらもと1992年8月号掲載)
夏は怪談と幽霊の季節です。このころ、芝居や盆興業に幽霊物が多く扱われるのは、盆の精霊祭りの時期だからです。
盆堤灯がともり、先祖の精霊が帰って来て祀られ、供養されます。これとともに招かれざる精霊たちも、このときゾロゾロと大挙してやってきます。すなわち祀るべき子孫の今は絶えてしまった精霊、この世になにか恨みが残っていて浮かばれない精霊もやってきます。
幽霊は「うらめしや」といいながら現れるというのが今日常識のなっているように、人の死霊で祀られないか、この世に怨みが残ったまま他界して、他界に安住して平素は子孫訪問のできないものが、幽霊となって出現すると考えられていました。盆に幽霊物の芝居のはやるのも故あってのことだったのです。
盆祭りの後、天候と稲作が順調であれば、その年の(豊年)は間違いないということで、村のの日が多くありました。そんなときは、青年団が興業権をもって、村芝居を行いました。村の広場に舞台を作り、村人は弁当や酒を持参して、ゴザに座って観劇しました。出し物は「国定忠次」や「番場忠太郎」などの他に、たいがい怪談物がありました。「猫化け」や「幽霊」物が演出され、客席の上にロープを張って、怪猫がロープを渉るという軽業まで取り入れた物もあって、村人は一時の娯楽に熱中したものです。
また暑くて寝付かれない夜は、縁台に座って、子どもたちは大人からおばけの話を聞きました。キツネやタヌキが人をだます話。ガタロの話。人魂や幽霊の話。一つ目小僧や傘おばけ。ロクロク首。吸血女など数え切れませんが、子どもたちは大人の話に夢中になって恐ろしがったり悲鳴をあげて、よけいに寝付けない子もいました。
こんなとき、親や祖母から祖先の話などを聞かされて、盆には返ってくると聞いては、どんな人だろうと子どもなりに祖先を忍んだものです。
盆の十四日、祖先が橋を渡って帰ってくる。そこには眷属(けんぞく)たち(餓鬼)がついてきてその橋で待っているという笠形(かさがた)の七橋詣り(ななはしまいり)の行事があります。
夕暮れ時、火のついた線香をもって七箇所の石橋に行き、線香を立ててお茶を注いで回る施餓鬼(せがき)の行事です。
橋は、我が住む此方に対して、川の向こう側を架け渡すという現世と浄土の渡しであり、また境であると考えられていたのです。
子どもたちが折りにふれて聞いたおばけや幽霊、餓鬼などの話は、頭に描くイメージがその子のおばけであり幽霊であって、その中から先祖の住む他界の姿を見、子どもの夢とロマンも託されていたのです。
『暮らしの中の幽霊たち』河出文庫 『田原本町の年中行事』より
ヨノミの話(広報たわらもと1992年9月号掲載)
榎(えのき)を田原本地方では「ヨノミ」「ユノミ」とよんでいます。なぜそう呼ぶのかは明らかではありません。
植物事典には「ニレ科の落葉喬木(きょうぼく、高木)。雌雄同様で、枝張広く樹冠拡開す。樹皮は灰黒色・灰色で老木には疣(いぼ)状突起がある。核果は十月成熟、赤褐色、小球形。甘みがありムクノキの実とともに小禽(小鳥)好んで食す。生長早く高さ20メートル、径2メートルに及ぶ。
性質は強健で土地を選ばない。造園木としては並木、一里塚などに用いるほか特用はない」とあります。
ヨノミ(榎)は一九七〇年ごろまでは寺川筋に多く生育していましたが、河川改修はどでほとんど伐採されてしまいました。
ただ地元住民の願いで唯一残っていた榎の大樹も、一九七二年(昭和四十七年)九月十六日の台風二十号のために倒れて、今は新地区に榎の碑が残るのみです。
榎を材料にしたものに建築用小部材、お椀、さじ、ひしゃく等の家庭用雑器があり、唐古・鍵遺跡からは弥生時代に使用されていた榎材の高杯(たかつき)、さし等が出土していて、現在と同様に使用されていたことがうかがえます。
このヨノミの木は、大和地方では神木とされ、野神をまつる木とする所が多いようです。
毎年六月の第一日曜日に行われる今里の蛇巻・鍵の蛇巻(鍵のヨノミは倒れて他の木にかわっています)のヨノミはその頭著なものです。また、村の境や家の北西の角(これを角榎と呼んでいる)にも植えられていて、悪霊の進入を防ぐ神のやどる木とされて、伐ったり枝を折るとタタリがあるといい、繁るにまかせた大木を今も見ることがあります。
秋になると子どもたちはヨノミの木に上り、柿色に熟した小さな実を採って食べました。食べ過ぎて下痢をしたり、逆に便秘になったりして、家ではヨノミのたたりとしかられても、甘く香ばしい味を好んで食べたものです。こんなとき、鳥たちもたくさん来て、特にモズやヒヨ鳥などは集団で実を食べ、かん高いその鳴き声は冬の近いことを告げるのでした。
須賀神社の社 味間(あじま)(広報たわらもと1992年10月号掲載)
昭和のはじめ、吉野神社にあった社をもらい受け、再築されたが現在の社だそうです。大八車を連ねて吉野神社まで行き、帰りは大勢の村人が芦原峠まで迎えて峠を越したといいます。車のない時代でしたからもちろんすべて歩いてのことでした。
次回は『茂吉橋』など。最終回
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