田原本町に伝わる昔話 - 第10話
地名にまつわる話 その3
11.「鏡池とカジヤ」(八尾・新町)(広報たわらもと1990年10月号掲載)
八尾鏡作神社(1)の宮の境内にあり。この池(2)にて神鏡を八咫(やた)ノ鏡(3)と名付けたまいしという。また神鏡を作るに際し、土掘り取りたまいしところなりという。
(磯城郡川東村外三ヶ村風俗志より)
(1)八尾鏡作神社
鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにすすあまてるみたまじんじゃ)
古代、八尾を中心とした付近一帯に鏡作部(べ)が居住し、この神社を氏神としてあがめまつったという。現在もなお鏡業界の信仰をあつめている。
(2)池
「大和名所図絵」(寛政三年~1791年)に鏡池が描かれており、<<みさひいぬる鏡の池にすむおしはみつから影をならへてそすむ>>という堀川百首の歌があり、境内にある天保11年(1840年)のお百度石にも歌が刻まれている。
(3)八咫ノ鏡
八咫ノ鏡は三種(さんしゅ)の神器(じんき)の一つ。八坂瓊勾玉(やさかのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)とあわせた三種の宝物(ほうもつ)をいいます。
※鏡作神社の南三百メートルのところに「カジヤ」「カジヤ垣内」(町役場の西側一帯)の地名があります。鏡を鋳造していたところではないか、また鏡を作る人々が住んでいたのではないかと言われている。この地の西側には、牛の埴輪(はにわ)(重文)が出土した「羽子田(はごた)」の地がある。
12.「梅川のかよった道(下之庄-今の三笠)」(広報たわらもと1990年11月号掲載)
下之庄を流れる梅川(1)は、東の九品寺の井堰(いせき)からきているが、新ノ口(にのくち)村(2)の中兵衛(ちゅうへえ)の宅へ、大坂の芸妓(げいこ)梅川(3)が一目を忍んで通った堤(4)だと伝えている。
(平野村史より)
(1)梅川
いまは「鳥米川(うめかわ)」という。
(2)新ノ口村
橿原市新口町
(3)芸妓梅川
芸妓梅川は、近松門左衛門(1653年~1724年)作の浄瑠璃(じょうるり)「途(めいど)の飛脚(ひきゃく)」の主人公。
作品の中に、「奈良のはたごや三輪の茶屋、五日三日夜をあかし、二十日あまりに四十両、つかひ果たして二分残る、かねもかすむやはつせ山、よそに見すてて親里の新口村に着きけるが」とある。
大坂淡路町の三度飛脚屋(ひきゃくや)亀屋の養子忠兵衛が、江戸の偽替金使い込みの罪で宝永六年(1709年)遊女梅川とともに捕らえられ、梅川は翌7年釈放、忠兵衛は同年12月に千日前刑場で死罪となった。実際の事件を仕組んだ浄瑠璃である。新口町の善福寺には、梅川忠兵衛の供養碑がある。
(参考図書『奈良県の地名』平凡社)
(4)堤
鳥米川の堤を、地元の古老たちはいまも「梅川堤」と呼んでいる。
13.「蓮休(れんきゅう)寺(薬王寺)薬王山蓮休寺・浄土真宗本願寺派」(広報たわらもと1990年11月号掲載)
むかし、蓮如上人(1)が大和へこられ、吉野郡飯具の本善寺へ通行の際にここの道場に立ち寄られ、自書の一軸をのこされた。そこで蓮如上人ご休憩の寺という意味から「蓮休寺」と名付けたとのこと。
(平野村史)
(1)蓮如上人
蓮如上人(1415年~1499年)室町時代後期の浄土真宗の僧。本願寺第八世。
14.「薬王寺(薬王寺)」(広報たわらもと1990年11月号掲載)
本尊が薬師如来であったので、寺名を薬王寺(2)といった。往古は禅宗で、有名な寺院であったので、いまでも馬場崎・西殿・石仏・卒塔婆堂・東阿弥陀・院田・大門などの地名がそこにのこっている。大字名の薬王寺もここから名付けられた。
(平野村史)
(1)薬王寺
瑠璃光山(るりこうざん)王寺。黄檗宗(おうぼくしゅう)。明治四年に廃寺(はいじ)となるが、その後再興されるも、昭和二十年ごろ再び廃寺となる。寺は村の西にあったという。現在数基の石塔が残る。
(参考図書『田原本町史』)
15.「萬田(まんだ)(満田)」(広報たわらもと1990年11月号掲載)
ここはもと東佐味といったが、文禄(1)以降に佐味から分離したといわれている。はじめ万田と書いていたが、平野家二代(2)の領主が領内を巡視され「万田村の稲田は最も優秀だ」と大いに賞詞された。この後に村の名の万田を「満田」に改めた由。
(平野村史)
(1)文禄
文禄(1592年~1596年)
(2)平野家二代
平野権平長勝(1603年~1668年)のこと。茶町の本誓寺に廟(びょう)がある。
16.「大将軍(だいしょうぐん)(保津・十六面)」(広報たわらもと1990年12月号掲載)
保津に字(あざ)大将軍という所がある。穂積朝臣(1)(ほづみのあそん)の宅地だったといわれている。
十六面(じゅうろくせん)にも字大将軍がある。両方とも地下大将軍(2)をまつったところと思われる。
(平野村史)
(1)穂積朝臣
万葉歌人。続日本紀(しょくにほんき)によれば、天平九年(737年)九月、正六位から外縦五位下に進み、同年十二月左京亮となり、天平十八年(746年)九月、内蔵頭となったという。生没は不詳。『萬葉集』巻十六に、平群朝臣との贈答の歌が一首みえる。
(参考図書『日本人名大辞典』平凡社。『日本古典文学大系萬葉集』岩波書店)
(2)地下大将軍
陰陽道(おんみょうどう)でまつる八将神の一つ。太白星の精で地に降り、四方をつかさどるといわれている。三年毎に四方を巡って、十二年目に元の方位へもどる。この神のいる方角は三年塞(さんねんふさがり)といって、なにごとも忌(い)まれた。
(『日本国語大辞典』小学館)
17.「竹田南方(みなみほう)(平野)」(広報たわらもと1990年12月号掲載)
平野(ひらの)はもと竹田南方(1)といった。西竹田の南にあるからいうが、もともと西竹田の領で、享保年間(1716年~1736年)に大網から分住したと伝える。そのため、人間関係は西竹田よりも、むしろ大綱と深いものがあり、宗教的には佐味・箸尾・大綱の寺関係の檀家が多い。
(平野村史)
(1)竹田南方
正しくは「竹田村南方」。昭和三十一年九月「平野」と改称した。
天保八年(1837年)の国絵図御改御用掛(くにえずおんあらためぎょうかかり)の見分は「南方之義竹田村より元文四年(1739年)末十一月出郷に相成候事」と、竹田村南方の成立を述べている。
(『奈良県の地名』平凡社)
次回は『地名にまつわる話 その3』です
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