田原本町に伝わる昔話 - 第8話
地名にまつわる話 その1
田原本町には多くの大字名(だいじめい)のほかに、数え切れないほどの小字名(こあざめい)があります。
古い昔から、その土地にちなんだ名前が付けられているようです。これらの地名は、埋蔵文化財の調査の上でも重要な役割をはたしています。また地名にまつわる昔話も、今にのこされています。今回はそのお話です。
(参考図書【磯城郡川東村外三カ村風俗志・県立図書館蔵より】)
1.「焼屋」(広報たわらもと1990年7月号掲載)
川東村蔵堂の西部にあり。蔵堂森屋(もりや)の大橋を中心として、北又は南に市場ありしという。
当時金貨をもって売買せず、同価の物品を以て売買し、大いに盛りなりしが、天武天皇(~686年)の御時、軍火にかかりて焼き払われたり。その焼跡を今なお「焼屋」と俗称するにいたりしという。(壬申の乱 672年)
そのそばにエビス堰(せき)あり。下三ヵ村(東井上、武蔵、備前)の堰なり。この堰の近傍に西向きにエビス神社ありしと。これによりて往時の隆盛なりしを追想するに足る。
※焼屋は「今市場垣内」「北市場」の地名で残っている。またエビス神社は村屋神社境内に祀られている。
2.「蔵堂(くらんど)」(広報たわらもと1990年7月号掲載)
蔵堂長兵衛の居りしところにして、その城塁のありしところという。よりてその名を残すと。今の問屋跡(門屋か)にその城塁ありしという。
3.「ハトリカミ」(広報たわらもと1990年7月号掲載)
川東村大安寺。服部神社の舊跡(きゅうし)なりという。天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後、村屋坐社の境内に遷り祭りしという。
※服部神社も同じく村屋神社の境内に祀られている。
4.「丹波山(たんばやま)」(広報たわらもと1990年月号掲載)
法貴寺の西方、鍵池の東北隅にあり。太閣殿下(豊臣秀吉 1536年~1598年)の七本槍(賎ヶ岳り戦。1583年)に有名なる丹波の守平野権平の屋敷跡及びその庭園のあったところという。近来まで枝振りよき松二本ありしという。
平野権平の祖先は興作という馬子なりしとかにて、今なお次の五とき俗歌残れり。
丹波興作は馬追ひなれど 今は御尻(おいど)で刀さす。
※丹波山の松は、地元の古老の子供のころ、確かにあったという。
5.「斎宮寺」(広報たわらもと1990年8月号掲載)
むかし在原業平(ありはらのなりひら)(1)(825年~880年)という人が、伊勢の斎宮女王を誘い出して、この地へにげてきました。
そのころ法貴寺を支配していた長谷川党(2)に助けられ、斎宮寺という寺を建てて隠れ住んでいたということです。
明治以前までは、領主水野家の位牌があったと伝えられていますが、今はそのお堂も無く、「斎宮神社」(3)となって祠(ほこら)のみがまつられています。
また磯城郡川東村外三ヵ村風俗志には次のようにあります。
斎宮寺
<「最空寺」川東村法貴寺にその跡あり。寺領五斗八升なりしという。
昔、在原業平奈良より吉野に至る途中、休息せしところなりという。>
この斎宮神社は今も、雨ごいにはよくかなえてくれるといわれ、八月には「雨ごいやまもり」が行われます。人々は境内にこもって会食をするのです。むかしは雨が降らないと二回三回とやまもりをし、雨が降って願いがかなうと順気(じゅんき)(4)やまもりをしたといいます。
ちょうどこの神社の前の土地は小字斎宮前といい、昭和63年に家屋建築にともなって発掘調査が行われました。この調査では平安時代から室町時代にかけて、なかでも鎌倉時代を中心とする遺構が検出されました。規模や性格は不明ながら、建物跡や井戸、大溝なども見つかりました。
直接斎宮寺とかかわるものは明らかにはなりませんでしたが、今後の調査に期待したい遺跡となりました。
(1)在原業平
平安時代初期の歌人で、六歌仙(ろっかせん)のひとり。(僧正遍照(そうじょうへんじょう)・文屋康秀(ぶんやのやすひで)・在原業平・喜撰法師(きせんほうし)・大伴黒主(おおとものくろぬし)・小野小町(おののこまち))。古今和歌集の編まれた和歌隆盛時代から先駆者の一人として高く評価されたが、早くから伝説化された人物。
(2)長谷川党
中世大和武士団の結合の総称で、初瀬川を中心とした武士団。
(3)斎宮神社
地元では「さいくじさん」と呼んでいる。
(4)順気やまもり
「よろこびやまもり」とも言っている。
次回は『地名にまつわる話 その2』です
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